【招詞】
「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」
(箴言1章7節・新共同訳)
【第一部】知恵への招き――「あなたは、まだ聞けますか」
今朝、私たちは「箴言」という書物の、いちばん最初のところに立っています。
箴言1章1節から7節。
まだ何も始まっていないように見える場所です。
けれども、実はここに、これから箴言を読み進めていくための大切な鍵があります。
いや、箴言だけではありません。
私たちが信仰者として、これからどのように生きていくのか。
その入口が、ここにあります。
1節にはこうあります。
「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。」
ソロモン。ダビデの子。イスラエルの王。
そして、神から知恵を与えられた人物です。
ですから私たちは、「なるほど、これは賢い王様が残した人生訓なのだな」と思うかもしれません。
こうすれば人生はうまくいく。
こうすれば失敗しない。
こういう人とは付き合った方がいい。
こういうことは避けた方がいい。
そういう「人生を上手に渡っていくための本」だと思うかもしれません。
けれども、箴言はそれだけの書物ではありません。
むしろ、もっと深いところを問う書物です。
「あなたは、神の前でどう生きますか。」
そこを問うのです。
私たちは「知恵」と聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。
頭の回転が速い人でしょうか。
判断の速い人でしょうか。
世渡りの上手な人でしょうか。
失敗しない人でしょうか。
空気を読むのが上手な人でしょうか。
確かに、そういうものも人間社会では「賢さ」と呼ばれるでしょう。
けれども聖書の知恵は、それとは少し違います。
2節、3節には、箴言が何のために与えられたのかが記されています。
知恵と諭しをわきまえるため。分別ある言葉を理解するため。
諭しを受け入れるため。
そして、「正義と裁きと公平に目覚めるため。」つまり、聖書の言う知恵とは、
ただ上手に生きる力ではありません。
神の前で正しく生きる力です。ここは、とても大切です。
損をしないことが知恵なのではない。人より得をすることが知恵なのでもない。
自分だけ安全な場所に立つことでもない。
「主よ、この場面で、あなたは私にどう生きることを願っておられますか。」
そう問いながら歩く。
それが聖書の語る知恵なのです。
そして4節には、
「未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。」とあります。
私はこの言葉を読むと、少し安心します。
なぜなら、箴言は「もう立派になった人」のためだけに書かれているのではないからです。
未熟な者。まだ分からない者。迷う者。間違える者。
そういう人に向かって語られている。
ということは、私たちは未熟なままで御言葉の前に来てよいのです。
「もっと立派になってから聖書を読みます。」
そうではない。
「もっと信仰が強くなってから神様のところへ行きます。」
そうでもない。
迷っているから来るのです。分からないから聞くのです。
弱いから御言葉を必要としているのです。
ところが皆さん。
ここに一つ、問題があります。
私たちは、知らないことよりも、
「自分は知っている」と思っていることの方が危ないということです。
信仰生活が長くなる。聖書を何度も読む。説教もたくさん聞く。
祈り方も分かってくる。教会のことも分かってくる。
すると、いつの間にか心の中に、小さな言葉が生まれてきます。
「それは知っています。」
「その話は聞いたことがあります。」
「その聖句なら分かっています。」
皆さん。
その時が危ないのです。
なぜなら、「知っている」と思った瞬間に、人は聞かなくなるからです。
けれども5節には、不思議なことが書いてあります。
「これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。」
つまり、本当に知恵ある人とは、「私はもう知っています」と言う人ではないのです。
もっと聞く人です。もっと学ぶ人です。もっと教えられようとする人です。
なぜでしょうか。
本当に知恵ある人は、自分が知らないことを知っているからです。
自分が間違える人間だということを知っているからです。
自分の判断が、いつも正しいわけではないと知っているからです。
だから聞く。
だから御言葉の前に立つ。
だから、「主よ、今日も教えてください」と言うのです。
皆さん。
これは年齢とは関係ありません。
若くても、聞かない人はいます。
年を重ねても、聞き続ける人がいます。
信仰生活が短くても、御言葉に素直な人がいます。
何十年教会に通っていても、「私はもう分かっています」
というところで止まってしまうこともあります。
だから今朝、箴言の入口で、神様は私たちに問われます。
「あなたは、まだ聞けますか。」
自分と違う意見を聞けますか。注意されたときに聞けますか。
聖書の言葉が自分の考えと違ったときにも聞けますか。
自分に都合の悪い御言葉にも耳を傾けられますか。
「主よ、私が間違っているかもしれません。」
そう言えますか。
ここなんです。知恵の入口は。
頭の良さではありません。知識の量でもありません。
聞く姿勢です。
自分をいったん脇に置いて、神様の前に立つことです。
「主よ、語ってください。」
「私は聞きます。」
ここから知恵は始まります。
そして、ここから私たちは、さらに深い問いへ導かれていきます。
聞くということは、ただ耳に御言葉を入れることではありません。
聞いた御言葉によって、自分の考えが変えられることを受け入れることです。
そこに、次の分かれ道があります。
【第二部】聞く者と拒む者――「自分が正しい」が邪魔をする
私たちは、知恵の入口は「聞くこと」だと見てきました。
では、聞くとは、どういうことでしょうか。
耳に音が入れば、それで聞いたことになるのでしょうか。
そうではありません。
私たちは毎週、礼拝で御言葉を聞いています。
聖書朗読を聞きます。説教を聞きます。
けれども、「耳に入った」ということと、
「聞き従った」ということの間には、かなり距離があります。
なぜでしょうか。
私たちの中には、御言葉より先に働くものがあるからです。
それは、「自分はこう思う」という心です。
御言葉を聞きます。
するとすぐに心の中で答えます。
「でも……。」
「それはそうだけど……。」
「現実はそんなに簡単じゃないよ。」
「それは分かっています。」
「これは私ではなく、あの人が聞いた方がいいですね。」
皆さん。
説教を聞いていて、
「ああ、今日の話は○○さんに聞かせたいなあ」と思ったことはないでしょうか。
ありますよね。
不思議なものです。
説教者は目の前のあなたに話しているのに、心の中では、隣の人に説教を転送している。
教会にも「心の転送ボタン」があるようです。
「ああ、これは主人に聞かせたい。」「これは妻に聞かせたい。」
「これはあの執事さんに聞かせたい。」
「これは牧師先生自身が聞いた方がいいんじゃないか。」
最後のものは、確かにそういう場合もあります。
けれども皆さん。
御言葉が語られたとき、最初に問われているのは誰でしょうか。
私です。あなたです。
御言葉の前に、他の誰かを立たせるのではない。
まず自分が立つのです。
「主よ、これは私に何を語っていますか。」
ここが大切です。
なぜなら、人間には不思議なところがあるからです。
人の欠点はよく見える。
自分の欠点は、なかなか見えない。
人が間違えていると、「どうして分からないんだろう。」と思う。
ところが自分が間違えていると、「これは事情がありまして。」となる。
人には原則。
自分には事情。
私たちは、案外そういうところがあります。
だから箴言は、私たちに「聞きなさい」と語るのです。
自分を絶対の基準にしないためです。
ここが、今日一番覚えていただきたいところです。
知恵とは、自分を中心にして神を見ることではありません。
神を中心にして、自分を見ることです。
もう一度言います。
自分を中心にして、「神様、この私の考えを祝福してください」と言うことではありません。
そうではなく、「神様、あなたの御心に私を合わせてください」と祈ることです。
この違いは、とても大きいのです。
私たちは祈るときでさえ、神様を自分の計画の協力者にしてしまうことがあります。
「神様、私はこうしたいです。」
「ですから、うまくいくようにしてください。」
もちろん願いを祈ることは悪くありません。
聖書は、願いを神に申し上げなさいと教えています。
けれども信仰は、神様に私の計画を承認していただくことではありません。
むしろ、「主よ、あなたはどう思われますか。」と尋ねることです。
そして時には、自分が握っていたものを手放すことです。
ここには痛みがあります。
だから「聞く」ということは、簡単ではありません。
本当に聞くなら、自分が変えられる可能性があるからです。
謝らなければならないかもしれない。
考え直さなければならないかもしれない。
自分の正しさを手放さなければならないかもしれない。
誰かを赦さなければならないかもしれない。
自分が間違っていたと認めなければならないかもしれない。
だから私たちは、聞きたくないのです。
けれども皆さん。
そこで聞ける人が、知恵ある人なのです。
知恵ある人とは、絶対に間違えない人ではありません。
間違えたときに、神の前で方向を変えられる人です。
失敗しない人ではありません。
失敗したとき、「主よ、教えてください」と言える人です。
だから5節は語ります。
「これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。」
賢いから聞かなくてよいのではありません。
賢い人ほど聞くのです。
信仰が深いから御言葉がいらなくなるのではありません。
信仰が深まるほど、御言葉が必要になるのです。
皆さん。
今日、神様は私たちに問われています。
あなたは、神の言葉によって変えられる余地を残していますか。
それとも、もう答えを決めてしまっていますか。
「私はこう思う。」
その言葉が、神様の言葉より大きくなってはいないでしょうか。
知恵の道は、自分の正しさを握りしめるところからは始まりません。
手を開くところから始まります。
「主よ、私の考えより、あなたの言葉を上に置きます。」
そこから始まるのです。
そして、なぜ神の言葉を上に置くのでしょうか。
その理由が7節にあります。
ここで、いよいよ箴言の核心に入ります。
「主を畏れることは知恵の初め。」
【第三部】知恵の源――「神を神としてお迎えする」
「主を畏れることは知恵の初め。」
この一言を、今日はぜひ心に持って帰っていただきたいと思います。
全部を覚えられなくてもいい。内容を全部覚えていなくてもいい。
わたしとしては少し寂しいですが、それでも構いません。
ただ、この一言を持って帰ってください。
「主を畏れることは知恵の初め。」
では、「主を畏れる」とは何でしょうか。
「神様を怖がることでしょうか。」
そう思う方もおられるでしょう。
けれども、ここでいう「畏れる」とは、
神様が怖くて逃げ回るということではありません。
罰せられるのではないかと、びくびくすることでもありません。
主を畏れるとは、神を神として認めることです。
この方は神である。私は神ではない。
このことを認めるのです。
簡単でしょうか。言葉にすると簡単です。
しかし実際には、これほど難しいことはないかもしれません。
なぜなら私たちは、いつの間にか自分の人生の王座に、自分自身を座らせてしまうからです。
私が決める。私が判断する。私が正しい。私が中心。
私の人生なのだから、私の好きなようにする。
もちろん私たちには、自分で判断する責任があります。
しかし信仰者には、そのさらに深いところに問いがあります。
「このことを、主はどうご覧になるだろうか。」
これです。
これが、主を畏れる人の問いです。
人に見られているかどうかではない。
損をするか得をするかでもない。
褒められるかどうかでもない。
「主は、これをどうご覧になるだろうか。」
仕事をするとき。お金を使うとき。人の悪口を言いたくなったとき。
腹が立ったとき。誰も見ていないところで何かをするとき。
大きな決断をするとき。
そのとき、「主よ、あなたはどう思われますか。」と立ち止まる。
そこに知恵があります。
皆さん。
私たちは人生のすべてを知ることはできません。
明日のことさえ分かりません。
一年前、今日の自分がどうなっているか、完全に分かっていた人はいないでしょう。
人生は分からないことだらけです。人の心も分かりません。
自分の心さえ、分からなくなることがあります。
だから、自分だけを頼りにして生きるというのは、実はとても心細いことなのです。
けれども聖書は言います。
あなたがすべてを知らなくても、すべてを知っておられる方がおられる。
あなたが先を見通せなくても、あなたを導く方がおられる。
だから、神を神として認めなさい。
それが知恵の初めだ、と。
ここに希望があります。
知恵は、私たちが必死になって作り出すものではないのです。
「もっと賢くならなければ。」
「もっと間違えない人間にならなければ。」
そうやって自分を追い込む必要はありません。
むしろ逆です。
「主よ、私は分かりません。」そこから始めてよい。
「主よ、迷っています。」それでよい。
「主よ、どちらを選べばよいのか分かりません。」そこから祈ればよい。
「教えてください。」と言えばよいのです。
それは弱さではありません。
それこそが、知恵の入口なのです。
反対に7節後半には、「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」
とあります。
ここで言われる「無知な者」とは、単に学校の成績が悪い人という意味ではありません。
知識の少ない人でもありません。
聖書が問題にしているのは、教えられることを拒む心です。
「私は大丈夫。」「私は分かっている。」
「神様に聞かなくても自分で決められる。」その心です。
これが、知恵から私たちを遠ざけます。
皆さん。
アダムとエバの物語から、人間はずっと同じ誘惑の中にいます。
神の言葉より、自分の判断を信じたい。
神が「こうだ」と言われても、「いや、私はこう思う。」そう言いたくなる。
けれども、その場所から人間の迷いが始まりました。
だから聖書は何度も、私たちを原点に戻します。
あなたは神ではない。
しかし、あなたには神がおられる。
これは厳しい言葉であると同時に、大きな慰めではないでしょうか。
私は神ではない。全部分からなくていい。全部背負わなくていい。
未来を全部見通せなくていい。
なぜなら、神がおられるからです。
だから私は、その方に聞くことができる。
その方に委ねることができる。
その方に導きを求めることができる。
主を畏れるとは、神を人生の中心に戻すことです。
自分が座っていた王座から降りることです。
そして、「主よ、ここはあなたの場所でした。」と神様にお返しすることです。
すると、不思議なことが起こります。
全部分かったわけではない。問題が全部解決したわけでもない。
けれども、歩く方向が変わります。
なぜなら、自分が中心ではなくなるからです。
ここが、知恵の初めです。
皆さん。
主を畏れることは、信仰生活の初心者だけに必要なものではありません。
牧師にも必要です。執事にも必要です。長く信仰生活を送っている人にも必要です。
むしろ、信仰生活が長くなるほど、何度もここへ戻らなければなりません。
「主よ、あなたが神です。私はあなたではありません。」
この告白へ。
そして、知恵は頭の中だけにあるものではありません。
明日の生活に現れるものだからです。
【第四部】始まりに立ち返る――今日、一つのことから始める
さて皆さん。
ここまで箴言1章1節から7節を通して、
知恵について見てきました。
知恵とは、聞くことから始まる。
自分を絶対の基準にしない。
そして、「主を畏れることは知恵の初め。」
神を神として、人生の中心にお迎えする。
では、ここからどうするのでしょうか。
ここが大事です。
説教を聞いて、「なるほど。」で終わらないことです。
「ああ、今日は知恵についてよく分かった。」
それだけでは、まだ箴言を聞いたことにはなりません。
なぜなら箴言は、知識を増やすためだけの書物ではないからです。
生きるための言葉だからです。
ですから今日は、何か一つでいい。
御言葉を生活に持って帰っていただきたいと思います。
例えば、何か大きなことを決めようとしている方がおられるかもしれません。
すぐ決める前に、一度祈ってみる。
「主よ、あなたはどう思われますか。」
誰かとの関係で、腹を立てている方がおられるかもしれません。
言い返す前に、一度立ち止まる。
「主よ、この言葉を本当に言ってよいでしょうか。」
誰かを赦せない方がおられるかもしれません。
すぐ赦せなくてもいい。
でも、
「主よ、私は赦せません。どうか私を導いてください。」そう祈ってみる。
仕事で迷っている。家庭のことで悩んでいる。人間関係で苦しんでいる。
将来が見えない。
そのとき、全部の答えを自分で出そうとしない。
「主よ、教えてください。」ここから始める。
皆さん。
それが知恵です。
知恵というと、何かものすごく立派な答えを出すことのように思います。
けれども、聖書の知恵は、もっと小さなところから始まります。
言葉を一つ飲み込むことかもしれない。
「ごめんなさい」と言うことかもしれない。
誰かの話を最後まで聞くことかもしれない。
自分の間違いを認めることかもしれない。
困っている人に声をかけることかもしれない。
一日の初めに、ほんの数分でも聖書を開くことかもしれない。
そして、「主よ、今日も教えてください。」と祈ることかもしれません。
知恵の道は、そういう小さなところから始まります。
けれども皆さん。私たちは必ず失敗します。聞けない日があります。
自分を中心にしてしまう日があります。
言わなくていいことを言ってしまう。
腹を立てる。人を裁く。自分の正しさにしがみつく。
そして後になって、「ああ、またやってしまった。」と思う。
そのとき、どうすればよいのでしょうか。
もう知恵の道から外れてしまったのでしょうか。
いいえ。
そこで、もう一度始めればよいのです。
「主を畏れることは知恵の初め。」
「初め」なのです。
神様は、何度でも私たちを初めに戻してくださいます。
「主よ、間違えました。」
「主よ、また自分を中心にしていました。」
「主よ、もう一度教えてください。」
その祈りから、もう一度始められます。
これが福音の恵みです。
そして私たちは、イエス・キリストを見上げます。
イエス様は、御自分の思いを押し通す方ではありませんでした。
父なる神の御心に従って歩まれました。
苦しみを前にしたゲツセマネでも、御自分の願いを隠されませんでした。
しかし最後には、御自分の思いではなく、父なる神の御心に身を委ねていかれました。
そして十字架への道を歩まれました。
私たちが何度も神から離れ、自分を中心にして生き、知恵ではなく自分の思いを選んできた、
その罪を背負うためです。
ですから私たちは、ただ「もっと賢くなりなさい」と命じられているのではありません。
私たちより先に、主イエスが歩いてくださった。
その主について行くのです。
分からなくなったら、
主を見る。
迷ったら、主に聞く。
倒れたら、主のもとへ戻る。
そしてまた、「主よ、あなたが神です。」
と告白する。
皆さん。
人生には、私たちの知恵ではどうにもならないことがあります。
どれほど考えても答えが出ないことがあります。
「あの時、どうすればよかったのだろう。」そう思い続けることもあります。
将来を考えて、不安になることもあります。
けれども、すべての答えを持っていなくても、私たちは歩くことができます。
なぜでしょうか。答えを全部知っているからではありません。
私たちを導いてくださる方を知っているからです。
ここです。
これが信仰です。
「私は分かっている。」ではない。
「主がご存じである。」だから歩ける。
「私は強い。」ではない。
「主が共におられる。」だから歩ける。
「私は間違えない。」ではない。
「間違えたなら、主のもとへ戻ることができる。」
だから歩けるのです。
そして知恵の道は、一人で歩く道でもありません。
私たちは教会という群れの中で、共に御言葉を聞きます。共に祈ります。
時には支えられ、時には支えます。
時には教えられ、時には誰かを励まします。
誰かが迷っていたら、一緒に祈る。
誰かが倒れたら、手を差し伸べる。
自分が倒れたら、誰かの手を借りる。
それでいいのです。
教会とは、「私は全部分かっています」という人たちの集まりではありません。
むしろ、「私たちには主が必要です」と告白する者たちの群れです。
だから共に御言葉を聞くのです。
皆さん。
今日、箴言の入口に立っています。
この先には、たくさんの知恵の言葉があります。
言葉について。お金について。仕事について。人間関係について。怒りについて。
怠惰について。正義について。家庭について。人生について。
けれども、それらすべての言葉を読む前に、聖書はまず一つの土台を置きます。
「主を畏れることは知恵の初め。」ここを忘れないでください。
知恵とは、自分が賢くなることではありません。
神を神として、人生の中心にお迎えすることです。
自分が王座から降り、「主よ、あなたがここに座ってください」と申し上げることです。
そして、御言葉に耳を開く。
「主よ、語ってください。」「私は聞きます。」そこからです。
そこから、知恵の道は始まります。
今日、もう一度始めましょう。昨日失敗していてもいい。
今迷っていてもいい。自分の未熟さを感じていてもいい。
今日ここから、
もう一度始めればいいのです。
「主よ、あなたが神です。私はあなたに聞きます。どうか私を導いてください。」
その祈りをもって、新しい一週間へ歩み出しましょう。
「主を畏れることは知恵の初め。」
この御言葉を心に抱いて、
知恵の道を、主と共に、そして互いに支え合いながら、
歩んでまいりましょう。